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経営者

 畑山浩志と申します。

趣味 「テニス&ソフトテニス、ギター演奏」  特技 「人工芝修復」

「挨拶」

 38年間務めた教職を定年退職し、2021年4月から高校まで過ごしていた生家に戻り、仙台から逆単身赴任で一人農業に挑戦。お帰りHIROSHIの挑戦が始まりました。初めて挑んだ米作りでは、数々の失敗を重ね、その度に地元の農家の方々に支えられながら「人魚の舞」(ひとめぼれ)ができあがりました。退職間近に施設の作業中に高所から転落・打撲した肩で、種まき、田植え、草刈りと作業をしていましたが、無理が祟って怪我が悪化。7月末に肩の鍵盤断裂が発覚、入院・手術を経て復活しましたが、稲刈り前のひえ刈りで鍵盤再断裂。しかし、入院・再手術は行わず、精米・袋詰め・販売に日夜努力しております。ご指導ご鞭撻のほど宜しくお願い致します。

「経歴」

 地元高校を卒業後順天堂大学に進学。「健康には病気は罹らないようにする教育が必要だ」ということを知り、「教育は運命を変える」という言葉との出会いから保健体育教師の道に進みました。部活動ではソフトテニス部顧問を35年間勤め、県の強化に力を注ぎ、宮城県選手の日本一に携わって来ました。また、顧問としてインターハイ個人出場に選手を導き、団体では全国選抜大会出場を成し遂げ、日本一に挑戦して来ました。 しかし、東日本大震災で妻の生家を無くし、多くの教え子を亡くしたため、退職後、教え子を蘇らせるつもりで米作りに転職しました。できあがった米を通して「米作りから人作りへ」をテーマに米販売やボランティアに取り組んでいいます。

 「人魚の舞」と防災

 私が8年間勤務した志津川高等学校は海側の南三陸志津川町にありました。私にとって第二の故郷となったその地は、あの東日本大震災によって一瞬にして消えていました。震災3日後向かった先には多くのものを失っていました。多くの教え子が犠牲となった中に、勤務当時に過ごしたソフトテニス部の教え子も入っていました。私の息子が幼少の頃に唯一懐いたその子は、明るく元気で常に前向きに練習に取り組む優しい子でした。その子は震災当時、私が住んでいたアパートのすぐ後ろにあった老人ホームに勤めていました。その老人ホームは避難指定場所になっていたため、多くの人がすぐ側にある安全な高台の志津川高校に行かず、待機してしまっていました。そこに津波が襲ってきたのです。何のすべもなく多くの命が失われて行きました。もし、避難指定場所になっていなかったなら地震後津波到達までの間に十分に避難できる距離に安全な場所があったのですから、多くの人が命を落とさずに済んだ筈でした。

確かに、東日本大震災は想定外の災害ではありましたが、守れるはずの命が失われたことに変わりはありません。スポーツにおいても想定外があったなら負けに繋がりますが、防災においては命に関わることに繋がることから、決して想定外はあってはならないのではないと感じています。震災遺構が薄れつつある現在ですが、震災だけでなく多くの災害で今なお多くの方々が辛い思いを強いられています。改めて防災教育として確立していく必要性を感じています。未来の子供たちに、決して同じようなことが起きないように、また、一人でも災害から自分の身を守れるようにこの「人魚の舞」を通して、防災の重要性を伝えて行きたいと思っています。