1.大震災で クラスや部活で関わった多くの教え子を亡くす
南三陸町志津川は、8年間勤務し、家庭を持ち、二人の息子を授かりました。私にとって第二の故郷でした。その故郷が2011年3月11日、一瞬にして消滅していました。住んでいたところはもとより妻の実家は井戸の口しか残っていませんでした。また、多くの教え子の命を失い、教え子の運命を変えることができませんでした。失った教え子の中に、ソフトテニス部キャプテンがいました。明るくチームを引っ張っていった責任感のある彼は、消防団に所属しており、誰よりも早く港の防潮堤の門を閉めに行き、命を失いました。また、ソフトテニス部の中にもう一人犠牲になっていた教え子がいました。その子は私の息子が幼少の頃に唯一懐いた明るく元気で常に前向きに練習に取り組む優しい子でした。震災当時、私が住んでいたアパートのすぐ後ろにあった老人ホームに勤めていました。その老人ホームは避難指定場所になっており、多くの人がすぐ側にある安全な高台の志津川高校に行かずに、待機していました。そこに津波が襲ってきたのでした。何のすべもなく多くの命が失われていきました。もし、避難指定場所になっていなかったなら、地震後津波到達までの間に十分に避難できる距離に安全な場所がすぐ側にあったことから、多くの人が命を落とさずに済んだ筈でした。
震災三日後両親を探しに行った日、避難所になっていた志津川高校のグラウンドから海を見つめるクラス担任をした教え子がいました。犠牲になったソフトテニス部女子とクラスメイトで同じ老人ホームに勤めていました。彼女は振り返り私を見つけると、突然走り出し私の胸にしがみつき泣きました。気を落ち着かせると語り始めました。おじいさんとおばあさんを手に取り、逃げている最中に津波が襲ってきたと言うのです。流されている時に近くにあったものに掴まり助かったと言うのです。気付くと自分だけが生き残っていたと言うのです。「自然に選ばれた命だから大切にするんだよ。」と言い聞かせましたが、別れ際に「先生。私、生きていていいんですか。」そう言い残し去って行きました。その時、命が助かったのに喜べないこの震災は計り知れない傷を残した災害だと言うことを知りました。
2.ボランティア活動と御礼
海側の大変さを知った私は、順天堂大学のソフトテニス部の先輩や後輩から連絡を頂き、実情を話し、相談すると快く仙台に物資を送っていただくことになりました。自前のマイクロバスを警察から緊急車両に認定して貰い、仙台に届いた支援物資をマイクロバスに乗せ、気落ちしていた父を乗せ、通行止め地域に入り、親戚や教え子の救済に携わりました。その後、順天堂大学から支援物資が届き、順大トレーナーを有志のソフトテニス部員に着せ、順大ジュニア支援隊を結成し、宮城県内の避難所に届けました。特に支援物資が届かない山側や津波を逃れた海側の人たちに届ける活動をしました。その後、多くの方々に広がり、多くの物資が仙台に届きました。県外の多くの高等学校からも物資を送って頂きました。テント、携帯ガスコンロなどの生活必需品から、野菜などの食料品、衣類・文房具などあらゆるものを送っていただきました。
支援物資は北海道旭川市、青森県青森市、富山県、長野県、埼玉県、群馬県前橋市、千葉県、東京都、愛知県新城市、兵庫県尼崎市、大阪から個人的に送って頂きました。また、富山県入善高校や大阪の多くの高校から送っていただき、大阪市天王寺高校、大阪府東大阪市立日新高校、 大阪府立枚方高校、大阪府立八尾翠翔高校、大阪府立大手前高校、大阪市立咲くやこの花高校、大阪府立八尾翠翔高校、大阪府立大手前高校から多くの物資が届きました。文房具類は主に小中学校に配布致しました。衣類は各避難所に届けましたが、誰の手に渡っているか分からないことからお礼の手紙もできずにいました。この場を借りて御礼申し上げます。あの時のすべての物資はいらないものではなく、日常使っているものが多く、皆様の心温まる気持ちが伝わって参りました。本当にありがとうございました。
3.人生の津波は容赦なく幾度も襲う。震災後十年間で多くの大切な人を失う
震災後、人生の津波は容赦なく襲ってきました。私事ですが、義理の兄は農協勤務しておりましたが原発事故における放射能の影響で肥料が調達できず、朝から晩まで勤務し、8月にくも膜下出血で倒れ、そのまま息を引き取りました。二次災害と思われる死を遂げてしまいました。
震災とは無関係ですが、当時勤務していた仙台商業高校の同僚で、ソフトテニス部顧問で共に戦った同士であり恩師的存在を癌で失いました。また、強化委員を共に務め、指導者仲間であり、ソフトテニス仲間を突然死で失いました。また、負の連鎖は止まらず、母の兄である叔父夫婦は子供がいないことから、「最期を看取って欲しい」と父同然のように慕って毎日を過ごしていました。ナイター付き人工芝コート4面の自作のテニスコート制作時に、共に尽力して頂いた叔父を施設のお風呂で溺れて失いました。また、その後、母同然の叔母を預けていた親戚の近隣の老人ホームで孤独死をしており、残念な出来事が続き、苦しい日々が続きました。
その後、親子鷹で総体決勝進出したときの親の会の会長であり、親友であった音楽仲間を肝臓の病で失いました。尚且つ、仙台商業高校時代のソフトテニス部の教え子を交通事故で失いました。
退職年度に、同期でありソフトテニスパートナーでありソフトテニス強化仲間であり、指導者として全国選抜優勝を成し遂げた大監督を病気で亡くすなどあまりに苦しい出来事が続きました。
4.津波の被害を受けた教え子の運命
また、津波の被害を受けた教え子の被災後の運命ですが、クラスの生徒で震災当時、家は一階の被害はあったものの家も残り、家族も全員助かり、本人も漁に出ていて助かったのですが、その後周りとのトラブルや多くの悩みを抱えていたのか、海へ投身自殺をしていました。
また、震災十年後の3月にソフトテニス部員の中に震災で家を無くし、その後多くのものを失い、自らの命を絶っていたソフトテニス部部員がいました。
5.防災教育の必要性
以上のことから、津波は海からだけではなく人生の津波は幾度となく押し寄せてきます。その度に自分を守り、人命を繋ぐ術を身につける必要があると思いました。
防災教育として伝えて行きたいことは「自分を守るのは自分」と言うことです。
非日常である災害時(地震・津波・洪水・土砂崩れなど)にいかにして自分の身を守る方法を身につけるかということと、日常の多くのストレスや問題から心的外傷を受けない手立てを行い、自分の命を守って行くことが必要だと思います。
震災から学んだことの一つとして次のことが上げられます。それは、「命を守る行動」に導いたものは次の5つの心でした。1)信じる心、2)頑張る心、3)諦めない心、4)負けない心、5)流されない心でした。そしてまた「命を救った行動」は、次の5つの力でした。1)観察力、2)洞察力、3)判断力、4)決断力、5)行動力 です。そして又、「命を繋いだもの」として上げられるものは次の3つの心でした。 1)思いやる心、2)助け合う心、3)支え合う心です。これらはスポーツの中で、「命を守った5つの心」は「勝利を導く5つの心」として、「命を救った5つの力」は「勝利をつかむ5つの力」として、「命を繋いだ3つの心」は「チームを作る3つの心」として、育てられるのではないでしょうか。
日常の中においてスポーツや芸術、仕事や家庭などの中で、自分の身を守るための「心や力」を養っていくことが必要だと思います。