「苦しみや悲しみの果てに得たもの」
別れた悲しみよりも出会えた喜びと過ごした時間が宝物になり生きる力になる
一部高体連ソフトテニス部会誌掲載
一部順天堂大学「啓友誌 第57号」掲載
畑(ハ)ッター農場(hatter farm)
畑 山 浩 志
人は、出会いと別れを繰り返しながら、迷い・悩み・立ち止まりながら生きて行きます。多くのものを失いながら、大切なものをいつの間にか手にして行きます。
指導者も多くの苦悩と戦いながら確かなものを求めて、誠実に、堅実に取り組み、着実に実践した時、確実なものが生まれ、真実が見えて来ます。「教育」こそが人の運命を変えられると信じて。負けの運命を勝つ運命に変えられたとき、未来を変えられると信じて今を生きることができると。
この30年間で分かったことがあります。「出会いが人を変え、環境が人を育て、経験が運命を変える」ということです。
私は高校時代、脳卒中で8年間寝たきりの祖父の横で介護してきた祖母を心臓病で亡くしました。後を追うように祖父を亡くしたのは高校2年生時の県インドア大会の前日のことでした。その日から「人の運命を変えられる方法」を考えるようになりました。大学進学を決めたのも順天堂大学の創立者佐藤泰然氏が「病には、治す前に、罹らないようにする教育が必要だ」と言い、体育学部を作ったことを知り、その言葉との出会いから順天堂大学体育学部健康学科で学び、卒業後、健康教育を行う保健体育教師の道を志しました。また、スポーツの経験から、「勝敗の運命を変えるのは、他人ではなく、自分自身である」ことに気づき、指導者としてスポーツ教育を行う教育者としての道を選びました。しかし、人の運命を変えられない出来事が起きたのでした。今の私を支えている記憶です。
1.教師の道を志してから初めてのソフトテニス部顧問時、たった一人のソフトテニス三年生部員で、キャプテンを交通事故で失う。絶対無二の一生を知る
1988年(昭和63年)初めて自分が出会ったソフトテニスの顧問をしていた。夢と希望を胸に「やっとスポーツ教育ができる」と思っていた。しかし、理想と現実は掛け離れていた。テニスコートは草が生え、摺鉢状になったコートは雨が降った後は池の状態になり、3日間は使える状態ではなかった。バックネットは海から来る潮風で腐食し、穴だらけで球拾いに時間がかかった。生徒は練習に来たり来なかったりで、苦労してまで勝ちたいとは思わず、「楽しければいいんです。」と笑っていた。保護者も「勝っても金にならないから芋掘りをした方がいい」「開港でウニやアワビ取りを手伝ってもらいたい。」と練習は二の次になっていた。
「本気で勝ちたいと思うものはいないのか」という問いかけにたった一人だけ「俺は負けたくないです。」という2年生がいた。厳しい練習を行えば行うほど、一人、また一人辞めて行った。最後に残ったのはたった一人だけだった。そこからワンツーワンの部活動が始まった。コート整備から始まり、周りの土をスコップでコートの中に入れ、コート中央を高くし、水はけを良くした。外への排水をスムーズにするために側溝を掘り、バックネットは近くの漁師の方から古くなった漁網をもらい針金で丁寧に繋いでいった。私は「今年は勝てないな」と諦めながら、来年頑張ろうと言い聞かせていた。一冬どんなに寒くてもたった2人で練習を続けた。共に走り共に打ち合った。いつの日かその生徒は息子のような存在になっていた。
半年が経ち、コートは一冬で見違えるように蘇った。県総体当日そこにはたった一人の3年生の周りは数人の後輩達がいました。試合前に笑顔で「この1年間ラケットを持つ時間よりスコップを持つ時間の方が長かったよ」「そうなんですか。ありがとうございます。」と後輩たちは礼を言いった。たった一人の先輩は、初心者同様の後輩に囲まれ、手にできたまめを見せながら「ラケットでできたまめよりスコップでできたまめなんだ。この1年間は精一杯やったから悔いがないよ」と誇らしく笑っていた。第一試合が始まり練習不足からまた1点また1点と取られて行った。それでもミスした後輩を笑顔で慰め、やっと取った1点では勝ったかのように喜んだ。団体は1回戦、初めての勝利を得たが2回戦で敗退した。個人戦も奇跡の一勝を挙げるが2回戦で選手生命が途絶えました。試合が終わった後も「済みません」と泣く後輩を気遣い笑顔で讃えていた。
最後に報告会を開き部員全員の前で改めて3年間を振り返って語ってもらった時のことである。いつものように照れくさく笑って話していたが、話していく内に突然涙で崩れた。「やっぱり勝ちたかった。インターハイに行きたかった。」と。そして、「1年間 辛かったけれど勝てなかったけれど指導してくださってありがとうございました。」と私に向かって深々と頭を下げた。共に過ごした1年間、口では「頑張るぞ。インターハイ行くぞ。」と叱咤激励してきたが、「今年は無理だな」とどこかで諦めながら過ごしてきた顧問の前で涙ながらに感謝の言葉を言ってくた。このとき始めて誰もが「勝ちたい」「インターハイに行きたい」という想いを抱いていることを知り、指導者として失格だったことを知らされた。「先生、卒業したら一緒に飲みたいっす」「そうだな卒業式には飲むか」と冗談を言いながら心地よい風邪に吹かれていた。
しかし、その約束は二度と果たすことができない出来事が突然襲ってきた。
バイク事故でガードレールの角に頭部を強打し即死。駆けつけたときにはもうそこには笑顔はなかった。このとき絶対無二の一球は絶対無二の一生に繋がることを知った。
その後、毎年妻の実家の墓参り後に教え子の眠る場所に立ち寄ることが恒例になった。いつしか傍らには物心付いた息子が付いてくるようになり、ある日「お父さん、なんでいつもここに来るの」と聞いてきた。幼い息子を膝の上に載せながらゆっくりと語った。「ここにはね、恵まれない環境の中でも最後まで夢を諦めなかった息子が眠ってるんだよ」と。
1989年(平成元年)二度と選手の可能性を疑うことはしないと誓い、指導者としての再スタートを切った。その後女子で県新人個人ベスト8、県総体の個人戦でインターハイ決定戦で敗れたものの東北大会決定戦で勝利しベスト10で東北大会出場を成し遂げた。
1995年(平成5年)に強化委員長として、恵まれない環境の整備と「日本一」を掲げ、強化に携わった。当時「雪国の学校は日本一はできない」とされていた頃で笑いが出たほどであった。しかし、多くの先生方における努力の結果、1997年(平成9年)大阪国体優勝、1999年(平成11年)熊本国体優勝(佐藤正行監督、中津川澄男コーチ)が成し遂げてくれた。
2008年(平成20年)教え子の死から18年間の時を経て、教え子の生まれ変わりと言うべき息子と親子鷹で過ごした3年間の末、県総体団体決勝のコートに経っていた。向かう息子の後ろ姿が教え子と重なり、改めて出会いに感謝した。
2.初めて長く組んだパートナー鈴木浩に捧ぐ
中学校から始めたソフトテニスとの出会いは私にとって掛け替えのない出会いを生むことになった。大学を卒業後地元宮城県に戻って教員生活を始めたころ、一般の大会に出場したとき、パートナーがいなかった私は知っている人に声かけては一度限りのチームとして大会に参加していた。ある日、高校の後輩が是非組んでほしいと申し込まれ、何回か組んで出場をした時のことである。
何度出場してもいつも負けてばかりで、ある日、「いつも負けてばかりでごめんな。ペア替えして強い人と組んでもいいんだよ。」と言ったとき、返ってきた言葉は「いや先輩、先輩と強くなりたいんです。いつか国体や全日本で勝てる選手になりたいんです。日本一になりたいんです。」そう言ってくれたのだった。日本一なんて考えてもいなっかった私に比べ、後輩は自分の可能性を信じていた。そして、「5年組んで、国体にも全日本にも出られなかったら解散しよう。それまでベストを尽くそう。」そう誓って畑山・鈴木はスタートした。負けては夜遅くまで話し合い、改善点を導き出しては大会に臨んだ。そして、ついに1991(平成3年)石川国体ソフトテニス能都町・県能都健民テニスコートで開催された国体への切符を掴んだのだった。国体は温厚な鈴木でも熱く声を出しながら必死でポイントを重ね、最高の笑顔を見せてくれた。また、全日本にもでられるようになり、目標を達成することができた。何年か過ぎ、そろそろペア替えをして後輩を育ててはどうかと言うことでペア替えをすることになり、「成年やシニアになったらまた組んで全国を回ろう」と約束をしてペアを解散した。数年が立ち私は生徒の強化に携わり、強化委員長として宮城国体を目の前に、忙しい日々を過ごしていたとき、突然の連絡が届いた。「浩が30歳の若さで癌で亡くなった」という知らせだった。成年やシニアになってまた組もうという約束は二度と果たす事はできなくなった。その時から二度と固定したパートナーは作らないことにし、浩との約束の「日本一」は生徒の「日本一」になっていました。
もしも、鈴木浩と組んでいなかったなら「日本一」という夢は身近なものにはなっていなかったと。宮城県の日本一が生まれたのは一つの出会いがあったからだと私は思っている。ありがとう。
3.命をかけた救世主 加藤秋吉氏に捧ぐ
宮城国体後、強化委員長を退き、県内に東北高校に匹敵する高校がないと競技力が落ちると考えていた。私は2004年(平成16年)仙台商業高校に赴任し、テニスコート以外の施設は恵まれているものの、テニスコートだけは2面のクレーコートと一基の投光器しかなかく、恵まれない環境の中で選手は藻掻いていることを知った。赴任直ぐの県総体はベスト8に終わり、その後、東北高校が島根インターハイ優勝を成し遂げ、打倒東北高校=日本一を目指すことになった。
一年後、多くの施設に多額の費用を掛けて迎えた県総体は奇跡的に決勝進出を成し遂げた。しかし、決勝戦は東北高校に4-0、4-1で惨敗に終わった。勝ちたい選手と勝たせたい保護者、「想い」と「願い」がどうしても叶えられない。
十分な練習と充実した活動の中での結果なら、たとえどこで負けようとも選手一人一人の人生の糧となる。笑顔で迎えた最後の総体ならばなおさらである。しかし、練習不足から自分に自信がなく、自分の弱さに打ち拉がれ、不安で顔が引きつる選手がいた。
十分な力を出せずに終わってしまう選手を目の前に何もできない指導者と保護者。子供にとって何が必要なのか。共に泣き親と子が「ありがとうございました」と深々と頭を下げる前で無力さが心を締め付ける。
「どんなに出費がかさもうとも勝たせてください」という保護者と「できるだけお金がかからないように限られた中で工夫をして行ってください」という保護者に分かれており、統一されずに時間だけが過ぎた。
何度も保護者会を開き話し合うが平行線をたどった。ただ言えることは確実に選手の選手生命だけが短くなっていったということである。
その後基本的な考え方を「日本一を目指すチーム作り」とし、選手・監督・保護者が「ベストを尽くす」ことを基本原則が認められ反対者がいる中で次のことを実施していった。
「1.日本一の練習ができる環境作り、2.全国を狙う高い意識、3.全国で勝つ確かな根拠(心・技・体・知・組)作り」を掲げ、まずは環境作りが開始された。
「スポーツを通して心豊かな子供を育てたい。」「十分な練習と十分な教育を子供達に与えたい。」そのためには、「誰もが気軽に集まり、世代を超えた豊かな心を求めて活動する場を作りたい。」そんな願いを親身になって聞いてくれたのが、土地提供者であり施設管理者になって頂いた熊谷幸夫さん・靖子さんだった。多くの出会いの重なり合いで生まれた一つの出会いが大きな事業をスタートさせた。
利益は一つもない「子供の笑顔を守る施設」の建設に次々と大人達が集まってくれた。個人で野球場を作り、アドバイザーとして支援していただいた梅津征雄さん。基礎工事を担当していただいた丸藤興業(株)の赤川御夫婦と寛永建設さん。バックネット基礎設置や電気工事担当の赤木電業さん。プレハブ提供の熊野神社さん。それを解体・組み立て建築していただいた今野さん・加藤さん。捨てる人工芝を提供していただいた建設屋さん。家財道具を寄付していただいた高橋隆良さんご夫婦。その他多くの方に助けていただいた。
春に子供の笑顔を見たい一心で土日も休まず協力してくれた。
生徒も自主的に学校から根白石まで7キロの道のりを自転車や走って通い、自分たちのコートを作るんだと向かった。一部の保護者も土日に足を運び共に手作業で人工芝を張っていった。
しかし、決して全員が心から趣旨を理解しているわけではなかった。根本的に心のどこかで「本当にこんなに苦労しても、どうせ東北高校には勝てないんだから無駄だ」と思っている選手がいたり、保護者の中でも「通う道が危ないのでやめてほしい」という意見が出てきた。よく聞くと「中学校でも勝てなかったのにインターハイなんて無理です。」「私立に入れないで公立に入れたのはお金がかからないと思って入れたんです」「テニスをさせるために入れたのではなく、勉強させるために入れたんです」という意見もでてきた。
どこかで諦めている姿が生徒本人にも保護者にもあった。
また、安全の確保と生徒の可能性のどちらを優先するのかという問い詰めや、挙句に「先生が勝ちたいからでしょ」「先生を信用できません」という保護者まで出てきた。
「純粋に夢を持ち、自分の可能性を信じ、最大限の努力する子供を育てたい」という本質は捻じ曲げられた結果となった。
コート1面ができたときのことである。学校長あてに反対派の保護者から投書があり、「個人の娯楽施設建設のために労力として生徒を使っている」「親から集めたお金をその施設につぎ込んでいるのではないか。」「公務員としてあるまじき行為」「教育委員会に訴える」と書かれており、「冬場の練習ができないから練習ができる環境を作りたい」のはずが不正としてとらえられ、事情把握が済むまで活動禁止とされ作業をするなら5時以降に一人で行うこととなった。
考査明けから県インドア大会までやっと練習ができると喜んでいた矢先のことである。
生徒の中にも「なんでやめなきゃならないんだ」という者と「親がやめろと言うんだから親を裏切る行為はやめよう」という者とに分かれた。素直な意見であった。作業は中止した。
しかし、どこかで納得がいかなかった。登山家は「山に登るのは目の前に山があるから」という純粋な心で行動する。なのに目の前に練習できるコートがあっても多くのしがらみで練習できなくなったコートを見ていると何かが違う気がした。投書した保護者は子供を想う気持ちから行った行為であり、子供を守るためにおこなったはずが、最終的には大人の偏見やエゴや誹謗・中傷にまで発展してしまい、子供の純粋な気持ちを踏みにじる結果になってしまっていた。
このままでは生徒も保護者もバラバラになってしまう可能性があった。
言葉でどんなに説明しても誤解を生むだけだった。
やるべきことは荒れた牧草地が一冬の努力で素晴らしいコートに変わることを証明することが、「一冬で選手も変わることができる」という証明になり、選手の可能性を信じきれない生徒と保護者の心を変えることにつながる筈だと信じ一人でコートに向かった。
壮絶な日々が続いた。寒さで手も足も感覚がなくなった。一人で行う作業は孤独が襲った。何度となく「本当にこれでいいのか」と自問自答しながら一枚一枚人工芝を手作業で敷き詰めていった。それは気の遠くなるような作業だった。しかし、ここで諦めたなら携わってくれた多くの方々の善意を無にすることになる。「あー!!」叫びながら空を見上げた。するとそこには無数の星の光が降り注いでいた。涙が溢れた。「独りじゃない。」
いくつもの辛い日々が流れて行った。中学生3年生になっていた息子が、見るに見かねて「仕方ないな」と言いながら手伝い始めた。「なんでこんなことやってるの」と呆れながらも完成を夢見て親子で作業をしていた。
そんなある晴れた土曜日のことである。自転車のブレーキ音が響き渡った。
「先生!」大きな声がした。そこには数名の生徒が「今までやってきたことは間違っていないと思います。」「手伝います。」と笑顔で言ってきた。何かが動き始めた。その後、保護者の中でも「子供の可能性を信じてみます。」そういいながら人工芝を地道に敷き詰め始めた。また、休日には次から次へと前任校の教え子たちもが集まってきて、「聞いたよ先生!また無理して一人でやってると思って手伝いに来たよ」と笑い合った。女子の教え子は細切れのネットを丁寧に繋ぎ合わせてバックネットを作り、男子は捨てるためにバラバラにされた人工芝を、手作業で繋いでは敷き詰めていった。その作業は雪が多かった年の冬に、寒さに耐えながら長期間にわたって行われた。春に間に合わせようと必死だった。
しかし、3コート目を作り終えた時、このままのペースでは到底3月1日の卒業式には間に合わなかった。「3年生の思いを叶えることはできないのか」そう思っていたとき、卒業式を一週間後に控えた卒業生が「卒業記念に最後の仕上げは自分たちの手で行いたい」と卒業式前日まで毎日通いだした。そして、やっと4面目を完成することができ、ついに3月1日から練習が開始されたのだった。
照明付き4面の人工芝コートは今までの3倍の練習量と全員が平等に練習できる環境を与えてくれた。クレーコートに敷き詰めただけの人工芝コートは決して平らではなくでこぼこではあるけれど十分に練習できるものであった。
日本でどこにでもないたった一つの手作り人工芝コートは、何もない雑草地が一冬で素晴らしいコートに変身したように、誰でも一冬で変われることを教えてくれた。「一人一人の可能性を信じて笑顔を絶やすな」と。
それから3ヶ月が過ぎ3年生にとって最後の県総体が目の前に迫ったときことである。
12月~2月までの3ヶ月の練習不足はやはり「間に合わなかった」と感じさせ、練習時の雰囲気は最悪だった。そんな時、プレハブを担当してくれた今野さんが、久々に訪れて教えてくれた。共に一冬プレハブを建ててくれた加藤忠敏さんが、完成後に帰宅途中倒れて入院し、そのまま亡くなったということを。
あの時土日も休まず作業をし、「子供の顔を見ると元気が出るんだ」「子供が寒いと思ってね。早く作るからね」と笑顔で言っていた。末期ガンと知りながら「建築家として子供のために最後の仕事をやり遂げたい」と苦しさに耐えて作業をしていた。入院治療を早く行っていれば延命も可能だったにもかかわらず、「命を縮めても子供のために建築家として死にたい」そう言って足を運んでいたという。その日、練習を中断し、生徒全員がプレハブに向かって黙祷を捧げた。一人の「願い」が選手を変えた瞬間であった。
この時「オンリーワンのコートからナンバーワンの選手を」という目標が掲げられた。日本一を目指して!
2006年の県総体。奇跡の団体3位入賞で東北大会出場権を勝ち取り、団体決勝戦が終わった時、直ぐに個人戦が始まるのだが、東北大会出場を決め、気持ちが浮いていると初戦で負ける時がある。気を引き締めな直そうかと思った時、良く見ると選手の顔つきは落ち着きを取り戻していた。初戦全員突破という目標がまずは叶えられた。
個人戦の1・2回戦を終え、次の日の個人戦を目前に練習したいと言ってくるかと思った時である。「先生!俺たちやり残したことがあります。」と言ってきた。よく聞くと、「プレハブを作っていただいた加藤さんにまだ焼香していませんでした」と。
引退という高校生としての「選手生命」が途絶えるかもしれない三年生にとって、東北大会出場決定を報告し、感謝を表したいと言うことだった。
「もしかしたなら罵声を浴びせられるかもしれないぞ。それでも大丈夫か」そう訊くと「大丈夫です」という答えが返ってきた。
向かった先には奥さんと娘さんの二人暮しをしている姿がそこにはあった。
全員がゆっくりと仏壇の前に座り焼香をした後、挨拶が遅れていたことを謝罪し、感謝の気持ちを伝えた。すると涙ながらに返ってきた言葉は「こちらこそありがとうございました。子供の笑顔が見れて楽しいといつも言っていました。主人は自分の夢を叶えることができて、穏やかで微笑むような顔で亡くなることができました」という感謝の言葉だった。「皆さんも夢を諦めないで、夢を叶えてください」と。
笑顔で最後まで諦めずに夢を追い続けることが人を勇気づけることを知った
「人は一生を終えて後、残るものは、蓄えたものでなく、与えたものである」と言うジェラールシャンドリの言葉との出逢いで教員の道に入った私にとって、与えていただいた「真心」は永遠に子供たちの心の中に残っていくと確信し、「人が育つ原点」であること知った。なぜなら、実績のない選手たちがその後快進撃し、県総体2年連続個人戦決勝進出を果たし、東北大会では第二位の成績を残したのだった。
また、4年連続個人戦インターハイ出場し、最高全国ベスト32という成績を残し、誰にでも可能性があることを立証してくれた。
たった一人の信念「未来ある子供たちのために何かを残したい」が子供の可能性を無限に広げたことに感謝したい。
2006年(平成18年)県総体個人決勝進出
山本・関根(仙台商)インターハイ4回戦進出
2007年(平成19年)県総体個人決勝進出
宇沼・松浦(仙台商)東北大会準優勝
インターハイ3回戦進出
児玉・地紙(仙台商)インターハイ2回戦進出
4.指導者としての神髄 村山道雄氏に捧ぐ
仙台商業高校に赴任することができたのも、県新人で優勝を成し遂げていた村山道雄先生が「県総体で中々結果に繋がらないので何とかしてほしい」と勧誘してくれたからだった。1年間二人三脚で過ごし、県新人第三位 県インドア大会では団体戦で東北高校戦で敗退するも太田・菊地が1勝し、初めての勝利を持ち込んだ。「来年の総体こそは楽しみですね」と言ったときである。村山先生から「実は胃がんが見つかって来年度は一緒に顧問はできないんだ。済まない」と告げられた。
「分かりました。早く治療して、また一緒に総体優勝しましょう!」「そうだな」と寂しそうに笑った。その後、コートに来ることはできなかったが、幾度となくアドバーザー顧問として教えを頂いた。休憩室では辛そうにしている姿を何度も見かけたが、私を見るなり元気そうに振る舞い、「今年はどうだ」と話しかけてくれた。校外のコート作成も快く賛成していただき何度か足を運んではアドバイスを頂いた。
2008年(平成20年)、2度目の県総体決勝戦2-④、2-④で敗れたことを報告すると「惜しかったな。対等にやれるようになったじゃないか。」嬉しそうに微笑みながら褒めてくれた。息子がお世話になったことに礼を言い、「新チームでインドア初優勝、全国選抜を狙います。」と告げた。 12月25日県インドア大会の予選リーグで、前年度全国選抜優勝し日本一だった東北高校に初勝利し、県インドア初優勝を成し遂げたのである。師匠村山監督と一緒に成し遂げた勝利だった。
その後、東北大会3位入賞し全国選抜大会の切符を手にしたのだった。
しかし、2010年(平成22年)県新人大会団体第三位だったにもか変わらず県総体団体一回戦敗退、県新人大会一回戦敗退と不毛の時代へと入る。その頃村山先生のがんの再発で入退院を繰り返していた。
2011.3.11東日本大震災で妻の生家を一瞬で失い、両親は生きていたものの数多くの教え子を失った。前赴任先の志津川高校のソフトテニス部キャプテンもその一人だった。
また、5月17日父親同然で根白石コート作成時に手助けしてくれた叔父が、施設のお風呂で溺死するという出来事が起こり、負の連鎖は止まらなかった。大会前に十分な練習指導できなかった県総体はベスト8決めで東北高校に敗れた。
県総体報告をするために病院へと向かったが足が止まった。「見舞いに来る暇があったら生徒についてあげなさい」そう言うに違いなかった。「県総体で優勝してから報告に行きます」と天を仰いだ。 しかし、その後もう二度と会うことはなかった。2011.7.1(木)2:00村山先生が永眠した。定年を迎える年だった。
大震災から4ヶ月、多くの命の尊さを知り、幾度となく涙した私にとって、この経験はあまりにも残酷なものだった。「どうして今なんだ!」「まだまだこれからなのに」「もっともっと見ていてほしかったのに」「どうして、どうして・・・」「あの笑顔を見たい。県総体優勝した時の喜ぶ姿を見たい。ただそれだけのために過ごしてきたのに・・・。」「やり直します。先生が残してくれたものを受け継ぎ、花を咲かせるために。」「絶対に優勝します。そしていつの日か、日本一の優勝旗を見せに行きます。待っていて下さい。」「先生に出会えたことが私の誇りです」「安らかに眠って下さい」「ありがとうございました。」眠っているお墓を後にした。
きっと、いつの日か生徒にこの思いが届く日が来ることを信じて。
5.プレーヤーと指導者としての原点 内海欣之氏に捧ぐ
白石工業監督の内海欣之先生は、「愛される人になろう」を合い言葉に、誰よりも生徒を愛し、誰よりも愛された指導者だった。秦野杯で一緒に組んで参加した時のことである。何度も点を取られては追い付き、何度か繰り返した後にマッチポイントを握られた時、振り向きざまに「先生、ソフトテニスって楽しいですね」とそう言って逆転をし、3位に入賞した。内海先生は賞状を手にしながら「俺、初めて賞状もらったです。最高に嬉しいです。」と微笑みながら、「生徒に同じように今の気持ちを生徒に味合わせたいです。」そう言って学校に向かった。
また、合宿時は遅くまでソフトテニス談義に熱くなり、午前0時を過ぎてから、「ライジングを教えてください」と言い出して、ナイターをつけて熱い乱打をした。「声は誰にも負けません」と言いながら1時間以上もの楽しい一時だった。
練習試合や大会で何度も合う度に試合をし、通算の勝敗を楽しんでいた。指導者としてプレーヤーとして常に向上心を持ち全力を尽くす戦友でもあった。
2011年(平成23年12月22日、23日 県インドア大会は夢のような大会となった。予選リーグに 1番白石工業(内海欣之)、2番登米高校(菊地貴樹)、3番大河原商業(佐藤鉄太郎)、4番仙台商業(畑山浩志)が同じブロックになったのである。長年に渡り強化に携わって来た指導者が一堂に会した。生徒を勝たせることができなかった時代を乗り越えてのインドア大会は、勝敗に関係なく充実した時間を与えてくれた。内海先生は勝っても負けても本当に勉強になりましたと深々と頭を下げた。「春の県総体も対戦できるよう頑張ろう!」と別れた。
その後、2012年4月3日合宿所に突然現れた。公務の都合で一時期監督を離れなければならないことを告げられたという。沈黙の後二人で泣いた。なぜなら県新人大会では仙台商業高校は準決勝で東北に敗れ、白石工業高校は念願の決勝戦に進出したが東北高校に敗退していた。「春にはどちらかが東北高校に勝って決勝戦をしよう」と約束をしていたからであった。
「プレーヤーとして今年は力をつけ指導に役立てよう」そう言ってギターを共に奏でて歌って楽しい時間を過ごして、また、「テニスもギターもやろう」と笑顔で別れた。その10日後4月12日帰らぬ人となった。
やりきれない気持ちで、叔母の形見であるマイクロバスのナンバーを見た時である。車体ナンバーは214だった。逆に読んだとき偶然にも412だった。もしもこの番号に意味があったとしたら、「4月12日はずっと一緒にいたはず」と悔やまれた。運命は変えられなかった。
しかし、「過ぎ去った人の運命は変えられないが、未来の勝敗は変えられる」と内海先生は微笑んだ気がした。
純粋にソフトテニスを愛し、生徒を愛することの大切さを教えてくれた。
決して諦めることなく、誠実に、堅実に取り組むことが、指導の原点であることを教えてくれた。 そして何よりも、ソフトテニスを楽しむことを教えてくれた。
「悩んでもいい、迷ってもいい、立ち止まってもいい、でも決して自分を失うな」と。
6.日本一のパートナーであり指導者 工藤敏巳氏に捧ぐ
プレーヤーとして5年越しで国体・全日本選手権に出場した時のパートナーを肝臓癌で失って試合に出ていなかった私に、「一緒に全日本社会人に出よう」と誘ってくれた。まだ、私は前衛に転向したばかりで、まだ前衛力が身についていなかったときである。試合中決して笑わないストイックな工藤先生は自分に厳しく自分自身を追い込んでいった。しかし、私がミスしても表情は変わらず何事もなかったようにゲームを進めてくれた。ポイントをして後ろを振り向いた時、小さくガッツポーズをしている姿には内に秘めた闘志を感じさせた。勝った後の試合後に見せる笑顔はまるで子供のようだった。ベスト16で終わったときは「日本一になれたな」と笑った。本気だった。
日本一に魅了された二人は共に指導でも日本一に拘るようになった。
その後、男女の枠を超え、幾度となく練習試合を行った。「柔は剛を制する」と何度も男子生徒は女子に勝てなかった。
迎えた2008年(平成20年)3月30日、全国選抜大会で一生に一度の奇跡があること信じ、生徒にその姿を見せたいと思い、名古屋に向かった。なんと待ち受けていたのは、男子中津川澄男監督率いる東北高校が優勝し、女子は工藤敏巳監督が率いる常盤木学園高校が優勝し、宮城県チームが全国選抜アベック優勝を成し遂げたのである。
いつも練習試合をしていた常盤木学園の選手の優勝した姿を見た仙台商業高校生は「来年は俺たちが出て優勝する」そう誓ったのだった。
2008年(平成20年) 仙台商は県総体団体決勝進出を成し遂げ、遊佐・上村(仙台商)は埼玉インターハイ出場を成し遂げた。
その後2008年12月25日 仙台商業は「根拠なき勝利なし」を掲げ、東北高校に初勝利し、県インドア初優勝を成し遂げ、「実績よりも蓄積」を証明した。
2009年(平成21年)3月30日 全国選抜 仙台商業高校と常盤木学園は念願のアベック出場を成し遂げ、共に一回戦敗退だったものの多くの課題を残し、名古屋ガイシホールを後にしたのだった。
共に日本一への道へ再スタートをしたのだった。
2009年(平成21年)
男子個人 相澤・平岡(仙台商)インターハイ4回戦進出
女子個人 安藤・田中(常盤木)インターハイ5回戦進出
あれから工藤監督は常盤木学園のコーチを辞め、その後疎遠になっていた。
風の便りに、新型コロナで全国選抜大会中止や、県総体も通常開催ができなかった中でも、夢を諦めていなかった指導者がいたと聞いた。
宮城学院高校の工藤敏巳監督はインターハイ・国体でまだ女子の優勝は実現していないことから、再挑戦を決意し実行していた。その矢先だった。2020年(令和2年)8月12日静かに息を引き取った。
誰よりも選手の可能性を信じて、指導者として、教育者として、日々努力することの大切さを教えてくれた。また、一人でも多くの選手に、「自分の可能性を信じること」が「誰でも強くなれる原点」であることを教えてくれた。
何より、残してくれたものは、別れた悲しみよりも「出会えた喜び」と「共に過ごした時の宝物」が「生きる力」として残してくれたことに感謝している。「本当にありがとう」